
1月の例会は21日午後3時30分からTCCで長田紀生監督・脚本「ナンバーテン・ブルース さらばサイゴン」を上映した。当日は長田監督と出演者の磯村健治さんが見え、あいさつされた。
「ナンバーテン・ブルース」は1975年に南ベトナムロケを行った。4月に戦争は終結したが、撮影はその直前に行なわれた。ユエとダナンではロケーションが終わった翌日に解放戦線が町を占拠するというきわどい状態だった。完成後、劇場公開される予定だったが、諸条件が合わず、公開されなかった。フィルムはプロデューサーの網野鉦一氏が所有していたが、約7年前の死去と共に行方不明になり"幻の映画”となっていた。しかし2012年5月、そのフィルムがフィルムセンターで発見された。長野監督らがデジタル修復し、ロッテルダム国際映画祭に招待された。映画は日本人商社マンの杉本(川津裕介)が、はずみで現地雇いのベトナム人を撃ち殺してしまう。恋人(ファイ・タイ・タン・ラン)と、日本に行きたがっている日本とベトナムの混血児タロー(磯村健治)を連れてブンタウから密航船で脱出を図る。
長野監督は「当時の日本は高度成長の真ん中でジャパン・アズ・ナンバーワンと浮かれていました。それに水をかけたかった。ベトナム戦争の末期で、われわれが持っている望遠レンズが銃と間違えられ、撃たれるなど危険な状態でした。橋などは軍事拠点などで撮れないことになっていましたが、袖の下で撮ることができました。タン・ランは当時有名な歌手で女優でした。死んだと聞かされていたのですが、ロサンゼルスで元気に生きていることがわかりました。再会が楽しみです。日本公開は難しいと思いますが、しかしインディペンデントでも公開してみる実験はしてみたい」と話していた。
野島孝一
ナンバーテン ブルース
ーーさらばサイゴンーー
竹内海四郎
法政大学沖縄文化研究所国内研究員
1975年4月30日、サイゴンが陥落して、ベトナム戦争は終結した。戦争中には、沖縄本島にある空軍第18航空団の嘉手納飛行場から、B52戦略爆撃機が、北ベトナム爆撃のために、長距離出撃をくりかえしていた。日本もベトナム戦争とつながっていた。
この戦争には、表の戦争と、陰の戦争との二面があった。前者は、この映画「ナンバーテン ブルース」に描かれているように、北ベトナム軍vs南ベトアム軍・米軍という戦争である。
もうひとつの戦争とは、「グラン・トリノ」(C. イーストウッド監督、2009年)に登場したモン族。北ベトナム軍vsモン族のコマンド部隊という、ラオスでの戦いーー。モン族は20数万もの戦死者をだしている。米兵の身代わりだった。これについては、報道写真家の竹内正右著『モンの悲劇』(毎日新聞社)が詳しい。
また、『岡村明彦報道写真集』(講談社)には、71年の「ラオス侵攻作戦」が撮影されている。この戦争に、米軍はモン族の兵士を1万5千人投入した。だが、「世界史のしっぽ」をとらえようとした岡村明彦(1929~85)からなぜか、モン族についての話は、一度も聞いた記憶がない。
長田紀生監督・脚本の「ナンバーテン ブルース」は、戦争が終結直前の南ベトナムで、撮影された貴重な未公開映画である。南ベトナムロケは、75年1月から4月にかけて行われた。恐るべき活動写真屋たちと称賛すべきだろう。かつての日本映画の野太い生命力を感じる。
物語は、自宅の居間で泥棒をしていた、元部下で現地雇いだったベトナム人の青年を、殺してしまうことから始まる。戦時下の警察は裏金で話がついても、青年の大家族からの報復はまぬがれない。それまでは、お気楽な中流の上の生活をしていた。商社員の逃避行が、南のサイゴンから古都フエ、北部のブンタウの港までつづく。
主演は川津祐介、恋人役にベトナム女優のファン・タイ・タン・ラン、日系混血児役には磯村健治。驚いたのは、当時の南ベトナム女優のファンが、裸のベッドシーンをみせていることだ。ヌードには、かなり厳しい生活習慣のはずなのだが・・。
カラッポでもなく、空虚でもなく、ただ、勝戰国の縛りを自覚していないだけで、明日への高揚感の残滓が残っていたころ、戦時下の異国で撮られた日本映画は、一度は観るべきだろう。
竹内海四郎