◆ 放射能を浴びた〔X年後〕  野島孝一



 「放射線を浴びた〔X年後〕」の伊東英朗監督を迎えて、日本映画ペンクラブの例会が18日、TCCで行なわれ、映画上映後にQ&Aが行なわれた。その様子を紹介する。
(幹事・野島孝一)

 「X年後」は1954年アメリカが行なったビキニ環礁での水爆実験で被爆したマグロ延縄漁船のその後を取り上げたドキュメンタリー映画。南海放送(愛媛県松山市)は8年前から船員らの長期取材を行い、番組で取り上げてきた。昨年の東日本大震災を受け、今年2月にNNNドキュメント(日本テレビ系列)で「放射能を浴びたX年後」として放送。それに新たな映像を加え、映画とした。9月15日、東京のポレポレ東中野と愛媛シネマルテックで公開される。伊東監督は番組の担当ディレクターとしてこれまでの取材に当たってきた。

――この映画は南海放送のテレビ番組として企画され、放送されたものがもとになっているのですね。

 「はい。2004年に事件を知って取材を始め、ローカル局で深夜に放送したのを年1回日本テレビ系列で放送したのが基になっています」

――元高校教諭の山下正寿さんと高校生たちによる長年にわたる調査がなければ、このような映画はできなかったのでは。

 「その通りです。山下先生はもう20数年もビキニ水爆被爆の調査をされてきました。その後追いをしてきたようなものです。おかげでイモヅル式に取材することができました。映画に出てきますが、山下先生は今も執念を燃やして調査を続けておられます」

――生存者は減ってきているのですね。

 「当時マグロ漁船に乗り組んでいたのは10代、20代の若い人たちが多かった。今、その方たちは70代、80代なので生き残った方々に取材することができたのです。しかし若くして放射能障害で亡くなった方々が多く、生存者はごく少なくなっています。被爆した『新生丸』の岡本甲板員の妻、豊子さんが言っておられますが、ご主人の同級生で死んだ人はいないそうです」

――被爆者の特定などは難しかったのでは。

 「そうなのです。ですから1954年3月から5月のキャッスル作戦に絞り、マグロ漁船を対象にしたのです。核実験そのものは1962年まで続きましたし、核実験国もアメリカのほかイギリス、フランスもありました。どれだけ被爆が膨大なものだったかというと、放射線落下物は日本にもアメリカ本土にも及んでいたことでわかります。だれが被爆者かというと皆さんがそうなのです。どうして日本の漁船などが被爆したかといいますと、アメリカは実験当時太平洋に立ち入り禁止区域を設けましたが、それは一方的なものでしたし日本の漁船などはよくわかっていない面もあった。ただしアメリカは事前に、世界中に放射線のモニタリングポストを設置して放射線を測定していました。被爆地の広島や長崎でも測定していたのです。日本政府も手をこまねいていたわけではなく現地に調査船を送って測定していました。データを見る限り調査船は正確に観測しています。アメリカとしてはその数字は都合が悪かったでしょうね。『第5福竜丸』のこともあって日本政府は事実関係を解明しようとしていたし、マスコミも熱心に取り上げていました。あの報道はどうなってしまったのでしょうか」

――関係者の中には取材拒否する方もいたようですが。

 「話したくないという方もおられます。被害者意識があまり強くないのではないかと思います」

――苦労した点は。

 「すべて苦労です。いくらやってもそういう事実を知ろうとしてもらえないことが残念です。国が被爆者と認定しないことなどの問題があります。しかし3.11以来、少しずつ興味を持ってもらえるようになりました。映画にもありますが、弱い人々にしわ寄せがいってしまうことが問題です。山下先生は孤軍奮闘していますが、手伝おうと言う若い人々が現れないのは困ったことです」

――この映画で伝えたいことは。

 「漁船の乗組員が死をもって訴えていることを知ってもらうことです」

2012年08月08日